第7回:社会承認という欲求A

人を好きになるのに理由は必要無い様に、音楽・演奏を楽しむ事に理由など必要ないが、理由が存在したって、いい。例えば最大の理由として、「音楽で異性にモテたい」。理由としてはコレ系が最上級であろう。いいじゃないですか、人間誰だってモテたい。それが理由ならば、その理由に真剣に向き合い、「モテるためには、カッコ良く見えるためにはどうしたらいいのか」ということに真剣に取り組めばいいのである。まぁ、モテる奴は何の努力もなくモテるのだが。

「手段」として音楽を利用するということに、嫌悪を示す人も僅かではあろうが、存在するだろう。だが、結局その音楽に込められている真意や欲求を著作者と同次元で理解されていることは、一部を除いて殆ど無い。
その根拠は、ブルースを愛していると称する日本人が、著作者の真意や欲求を同次元で理解することは有り得ないからである。
その理由は「黒人社会における現実と欲求が著作者から血と汗と涙となって流れ出たもの」が楽曲を形成しているに他ならないからであり、ブルースはやはりブラックこそが聴く者に鮮烈な印象と引っ掻き傷を残すんである。パンクもまた然り。やはり夕日が差すイギリスの寂れた工場跡にこそパンクは光り輝き・・・割愛(笑)。
要は音楽は「人間と社会の歴史」であり、聴きながら「人間と社会の歴史を観る」ということでもある。

社会の歴史を観るということにおいては、変貌により廃れた邦版ブルース「演歌」などは理解しやすい。
哀愁漂うメロディーと歌詞で主人公を演じる「演歌歌手」が「カラオケの流行」により「聴き手」にその役を奪われた格好となった。聴き手にならずとも、自分の人生に準(なぞら)えて演歌をカラオケで歌う事が可能となり、買ってまで演歌を聴こうとしなくなってしまった。
プロによって演じられてきた楽曲に対し、自分が主人公になれる手段を容易に得てしまったんである。
ここに「新たな歌い手」として「自分の人生に準えて、心情を吐露しつつ歌う」という社会承認欲が芽生えてきたのであろう。音楽を商品として扱うのが当然である「厳しい(安易な?)プロの世界」の中、実にいい事である(笑)。

では、私の欲求とは何か。

「分かって欲しい」んである。

これは、大部分の人々の代弁でもあり、正に「社会承認欲」であろう。
私にとっての社会承認欲とは、それは即ち「なぜステージに立っているのか」という事を分かって欲しい、という事だろう。
次回、そこの辺を以って、一連の社会承認という尺を詰めねばなるまい。


次回は「社会承認という欲求B」。

by.ミスターTAMIYA

2007/03/21 Wed

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